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NZ MoyaSystem

ニュージーランド在住のプログラマがあれこれ書くブログ

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元社畜がニュージーランドで観た「君の名は。」

※この記事は映画「君の名は。」のネタバレを含みます。

2016年。

日本国内で大ヒットとなった映画「君の名は。」がついにニュージーランドで公開された。クライストチャーチでも期間限定上映が始まり、僕はスクリーン正面の席を予約して、胸を躍らせながら劇場に向かった。

市内で一番大きなシネコンで1日に1回のみの上映。日曜の昼間の劇場は、満員とはいかないまでも半分以上は席が埋まっており、たいして宣伝もされていない日本映画にしては十分と言える客入りだった。その多くは日本人だが、地元のニュージーランド人や、中国人も足を運んでいた。

僕は今年の2月から、ここ、クライストチャーチのIT企業でプログラマとして働いている。システム開発の仕事は楽しいが、決して簡単ではなく、ときどき失敗してへこむこともある。けれど、優秀な先輩や、親切な同僚たちの力を借りながら、なんとか毎日を乗り切っている。

残業や休日出勤はゼロ。有給休暇は気兼ねなく取れ、先日も1週間会社を休んで旅行してきたばかりだ。1日8時間きっちり働いて、夕方からはプライベートの時間を楽しむ。最近は新しい趣味も始めて、ますます人生が楽しくなっていることを実感する日々だ。

……おっと、もうすぐ予告編が終わる。館内の照明が落ちる。

ニュージーランドの映画館のスクリーンに、「東宝」のロゴが映し出された。



2013年。

栄(さかえ)は名古屋市きっての繁華街だ。名古屋駅から東に伸びる広小路通と、名古屋城の脇を通って南北に走る大津通との交差点を中心に発展するエリアである。

名古屋のシンボルである、高さ180mのテレビ塔がそびえ、百貨店にハイブランドの路面店、広大な地下街、巨大劇場に県立美術館、レストラン街に飲み屋街。都会の遊び方のすべてが詰まっている、中部地方で最も賑やかな地域だ。

ある12月の日曜日の昼下がり。僕はこの街にいた。

地下鉄東山線「栄」駅、1番出口から徒歩1分。抜群のロケーションにあるオフィスビルの6階で、僕は Excel に書かれたシステム仕様書を死んだ魚のような目で見つめていた。はす向かいのデスクでは協力会社のプログラマさんが、一心不乱にキーボードを叩き続けている。課長はさっきから携帯電話で部長に進捗を報告中だ。

僕は無意味にマウスホイールをくりくりと回す。画面が上に、下に、スクロールを繰り返す。

……どうしてこんなことになってしまったんだろう?  

発端は、先週クライアントに納品したシステムが、稼働直後に大量のエラーを吐き始めたことだった。調査してみたところ、改修を加えた機能について、大幅な設計の不備と、テスト不足が発覚した。

僕たちが作っているのは財務管理システムだ。数字に関するエラーは許されない。即座にデータベースをロールバックし本番環境を復旧。そして、週末を返上してのバグ修正と再テストが始まったのだった。

これで何回目だろうか。このプロジェクトに配属されてから、リリース後のトラブルや無茶な納期設定のお陰で、週末が潰れるのは一度や二度ではない。どうしてこうもうまくいかないのだろう。

ふと、窓の外を眺める。名古屋でもっとも賑やかな街の喧騒が見える。

このオフィスは今年度限りで引っ越しが決まっており、次はもっと地味なオフィス街に移る予定だ。

結局、栄の街はほとんど楽しめなかったな。平日はいつも終電まで仕事だから、買い物したり、外食したりして帰ることもできない。休日はひたすら休んで疲れを取るだけで精一杯だ。残業代で銀行口座だけは潤っていくけれど、それで大して幸せになれるわけでもない。

こんな人生に何の意味があるんだろうな。

僕はふらふらと席をたちトイレに向かう。そのまま個室に入り鍵をしめる。別に用を足すわけでもない。便器の側に座り込み、膝に顔をうずめる。最近は、ときどきこうして一人にならないと気が狂いそうだ。

ふと見上げると、カバンをかけるための金具が目に入った。見つめるうち、紐をひっかけるのに実におあつらえ向きに思えてきた。こう、輪っか状になった紐を。たとえばネクタイとか。輪になるように縛って、ひっかけて、そこに首を通してみたらどんな感じだろう。ちょっとやってみようじゃないか。



2016年。

映画館に近いカフェで甘ったるいストロベリーシェイクを飲みながら、僕は映画の内容を反芻していた。

「君の名は。」に描かれているテーマのひとつに「忘却」がある。主人公の三葉と瀧は、入れ替わりを繰り返す中でお互いに惹かれ合っていくが、なぜか、相手の名前という極めて大切な情報を忘れてしまう。

三葉が2013年の隕石衝突にともなう糸守町の消滅とともに亡くなっていたという事実を知ってから、瀧は三葉と糸守町の人々を守るために奔走する。その思いは時を越えて三葉にも伝わり、糸守町の人々は救われる。しかし、彼らはそんな大事を成し遂げたことも、お互いのことも忘れてしまう。

最後に残ったのは、「誰かを探している」という思いだけ。

一見して残酷なストーリーだが、これは「忘却の先に残るものこそ、本当に大切なものである」というメッセージだと僕は解釈した。相手の名前だとか、どこに住んでいるかだとか、おっぱいや朝立ちの感触だとか、そんなものはすぐに忘れてしまうような些細なことにすぎない。「誰かを探している」という純粋な思いこそ、最も大切なのだ……と新海誠監督は考えているのだろう。新海作品によく言われる、童貞っぽいという印象とも一致する。

これは別のモチーフでも劇中で描かれている。三葉と四葉が「口噛み酒」を作る儀式の場面でお囃子が流れるが、これが生演奏ではなくステレオから流れている。祖母の一葉が「大火で書物が何もかも焼けてしまい、祭りの意味も忘れられてしまった。今は形だけしか残っていない」と語っているため、最初は、お囃子を演奏してくれる人もいなくなり、祭りがいよいよ形骸化しつつあるという意味だと思っていた。

しかし「口噛み酒」に宿る不思議な力を知ったあとでは、これは、生のお囃子という枝葉末節は失われても、祭りの本質である「口噛み酒」だけは忘れられずに残る(たとえ思春期真っ只中の三葉が嫌がったとしても)ことを表していると考えるのが適当だ。



僕は2013年に会社を辞めた。言い換えれば、社畜を辞めた。

貴重な自分の人生の時間を、これ以上、好きでもない仕事に割いて生きていくのはもうこりごりだったのだ。今思えば鬱病の一歩手前程度には精神を病んでいて、死ななかったのは運が良かったとしか言いようがない。

そして、よりワークライフバランスの取れた社会で再就職するため、ニュージーランドの大学に留学した。

それから3年経った今、社畜時代の記憶が少しずつ薄れている。

留学先の大学を卒業した頃から、僕はブログを書き始めた。ニュージーランドでの生活や、海外での就活日記などを書き綴っていくうち、日本の労働環境に対する批判の記事が注目を集めだした。

その多くは怒りを原動力にして書かれたものだ。僕を過労死寸前にまで追い込んだ職場への怒りを、会社、IT業界、ひいては日本の労働環境すべてにまで膨らませ、一種の恨みをこめて文章をしたためていた。プログラマとして働き始めてからも、かつての職場とのあまりの違いに衝撃を受けることが多く、そのたびにブログを更新していた。

しかし最近は、そんな怒りや衝撃を覚えることが少ない。かつての自分の働き方と、今のゆとりある働き方を、無意識に比べることが減ってきている。以前はあれほど鮮烈に思い出すことのできた、残業のつらさ、休日出勤のやるせなさなど、今では感覚がすっかり薄くなり、ブログの更新頻度も落ちた。

そのかわりに、なんてことない毎日を過ごせることの喜びは、日々強まっている。朝起きて、好きな仕事をして、5時半には退社して、まだ明るい夏の空を眺めるとき、あぁ、こういう人生を僕は生きたかったんだよなぁと感じる。健全な勤労の喜びと、充実した私生活のある、なんてことない毎日を。

家族や友人たちと別れ、地球の反対側までやってきた行動力を支えていたのは、間違いなく怒りだった。その炎が次第に燃え尽きていく中、最後に核として残る最も大切なものは、自分の人生を生きることへの切望なのだ。


ストロベリーシェイクを飲み干してカフェをあとにした。ケミカルな味しかせず値段の割に全然おいしくなかったが、久々に書くべきことが見つかったのに免じて気持ちよく許してやった。